●陶歴
昭和19年 |
信楽に生まれる。 |
昭和38年 |
県立高校卒業後、父について修業と同時に裏千家茶道を学ぶ。 |
昭和48年 |
茶名「宗英」を拝命。 |
昭和50年 |
茶道文化研究所に入り古賀健蔵先生に御指導いただく。 |
昭和51年 |
高麗、鶏龍山の窯跡を訪ねる。 |
昭和60年 |
京都野村美術館で個展。 |
昭和62年 |
東大寺長老清水公照先生のご指導をいただく。 |
昭和63年 |
東京日本橋三越本店で個展。 |
昭和64年 |
大阪三越ギャラリーで個展。 |
平成4年 |
信楽焼伝統工芸士に認定される。 |
平成6年 |
京都大丸で個展。 |
平成7年 |
倉敷三越で個展。 |
平成10年 |
社団法人裏千家淡交会滋賀支部顧問を委嘱される。 |
平成12年 |
福岡三越で個展。 |
平成13年 |
仙台三越で個展。 |
平成14年 |
高松三越、奈良近鉄で個展。 |
平成15年 |
『公照と奥田英山窯』と題して姫路書写の里美術工芸館にて作品展。 |
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各地で個展。 |
平成16年 |
京都、広島、大分、宮崎、千葉、各地で個展。 |
平成17年 |
大阪、福岡で個展。 |
平成18年 |
東京、大阪、大津、町田各地で個展。 |
●信楽焼
小山富士夫先生が提唱された「日本六古窯」とされる瀬戸、常滑、越前、丹波、備前、信楽の六陶産地が、陶器づくりを始めたのは平安末期から鎌倉時代にかけてであろうと言われています。須恵器(朝鮮式土器)の穴窯やロクロの製陶技術の影響を受けて始まり日本の土器(土師器)の流れを汲んで、産地となっていきました。明治10年、宮内庁で編集された「工芸志科」によりますと、信楽焼は弘安年間(1278〜1287年)鎌倉中期に始まるとされています。信楽焼の古窯跡調査により、壷、甕類と共に沢山の擂鉢が出土しています。擂鉢は、1191年(鎌倉時代)禅宗が伝来し、それに伴って精進料理として豆を用いて擂る食料が伝えられ、普及したことにより、当時各地で擂鉢の需要が高まり、焼かれ荘園の外へ販売され(鎌倉幕府の許可により)、信楽をはじめ各陶器産地が形成されていきました。
「古信楽」とは中世穴窯で焼かれたやきものを総称し、信楽焼の創始時代(鎌倉時代)から安土・桃山時代までの品物(主として壷類、甕類、擂鉢、茶陶)をいいます。慶長年間からは「登り窯」に移行し、江戸時代には殆ど古代穴窯は使われなくなっていました。古代穴窯は、須恵器窯を見習って山麓の山腹を利用し、トンネル状の穴を掘り、焼成室となる部分は広く、その奥に煙道となる穴を上方に開けています。窯の前方は日当たりの良い南方が空けている立地で、近くに谷川など水があり陶土(原土)や薪も近くにある山麓を選んで窯場にしているのが殆どであります。特徴は無施釉で焼成し、土を焼いた色が独特の明るい肌色(火色)になり、温かい土味を出しています。重なって焼き上がり、炎の加減や水分など、焼成中の窯内の変化で「自然釉」とする器面の景色が様々に変化して焼き上がり、「ビードロ」「火色」「焦げ」が品物それぞれに現れます。口造りには古常滑、古瀬戸の影響を受けたものと思われる「二重口」「折返し口」(断面が逆U型のような)があります。又、室町時代に焼かれた「古信楽」にのみ、縄目文(又は檜垣文とも呼ぶ)の紋様がほどこされています。これらの事などから、昔から、識者、数奇者の方々に称賛されてきました。
元和8年(1622年)江戸時代初期から大正天皇御大典の時まで、徳川幕府の命により、「御茶壷師」と認定された信楽焼の陶工により、登り窯で「献上茶壷」が製作されました。これにより、全国的に認識される陶器産地としての地盤を確立しました。「献上茶壷」は腰から下は白色釉、上は茶色又は茶黒色です。肩には四個の耳がついており、耳と耳の間に逆U字形の流し釉(土灰釉)が施されています。別名「腰白茶壷」・「信玄壷」とも言います。江戸時代はあらゆる生活必需品が殆ど陶磁器によって取り揃えられようになり、信楽焼でも登り窯への移行で大小各種の茶壷を主力にして、あらゆる生活必需品が大量に焼成されました。「荒土」とも称される蛙目粘土、及び木節粘土での壷などの大物が特徴的でありましたが、江戸時代初期から明治・大正時代まで、水簸土(漉土)による磁器と間違うほどの精巧な薄作り小物も焼かれていました。
寛政年間(1789〜1800年)、瀬戸より白萩釉・銅青磁釉が伝わり、「青スダレ」又は「スダレ流し」「縄垂れ」の装飾技法が生まれました。焼成によって上から下へ垂れ流れる釉薬による技法で、地釉の白萩釉(白濁色)の上へ肩あたりから竹筒や管の杓に銅青磁釉を入れて下方へ垂れ流しながら線状に施釉し、焼成によって、白地釉に青緑色の美しい線模様を作り出し、コバルト釉を用い青色も加えるようになりました。細密に規則正しく流れ線模様を焼き上げ、幕末から明治にかけて多用されました。
大正時代を境として、瀬戸焼などの磁器製品に圧倒され、次第に水簸土による陶器製小物の生産は衰退し、火鉢、壷など大物陶器の産地として信楽焼のカラーが形成されて行きました。第二次大戦後の日本で、火鉢は暖房具として欠かすことの出来ないものであり、信楽焼の火鉢は爆発的な需要を受け全国各地に送られ、陶器産地信楽の名を知らしめる主力製品になりました。この火鉢に多く用いられたのが「海鼠釉」です。珍味の「なまこ」の姿のような、青藍紫色と白色失透色が粒状に溶け合った斑点模様を「海鼠釉」といいます。信楽では明治に入ってから「海鼠釉」の開発が始まり明治33年頃完成しました。
昭和40年頃から、火鉢から植木鉢に主力が移りました。昭和26年11月15日、昭和天皇がはじめて信楽へ御行幸された時、沿道に並べられた日の丸を持った狸の置物をご覧になり、「幼なとき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」という歌を詠まれ、新聞などで公表されました。、皇太子の時に狸のやきもの集めて楽しんでおられ、そのことを思い出し、なつかしい思い出であるという歌を詠まれたのでした。この時から今では狸のやきもの産地として、狸のやきものが信楽の町の顔として、多くの観光客の方に親しまれています。
現在、大型陶板、建築用陶板、大型美術陶板等々、陶芸の技や伝統を踏まえた樣々なタイプのセラミックを巾広く生み出し、先端技術を世界的に広めています。
●信楽焼の土
信楽の陶土は耐火性があり、また長硅石粒を含み、粗い土質であるが、木節粘土を調合すると可塑性もあり、腰もあるので、特に大物や肉厚の物を造るには最適の陶土であります。近年、全国各地の陶芸教室など、陶土の無い所でやきもの造りをされる方々にも広く使われています。焼くと(特に薪で焼いた時)、土質や炎の加減や水分(湿気)、塩分、灰分などの様々な条件、作用によって、信楽独特のほの赤い、温かい土の味、美しい火色(肌色、ピンク系、赤・黄褐色系、灰色、ヌケ【物と物の接点に部分的に白くなる現象】等)を生み出します。又その器面に、ビードロ釉や焦げの織り成す自然釉の景色を創り出します。これらも火色という基盤があってこそ一層生かされ映えてきます。 |